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以前、介護施設に勤めていたとき、なんとなく気が合って、親しくしていた高齢の女性が、
あなたはここの外にも、いっぱい友達がいるでしょう。
だけどわたしにはなんにもないの。
わたしにはあなただけしかいないのよ。
そう言って泣いていたのを思い出します。
認知症の彼女は、すっかり女学生の気分に戻って、わたしたちはよく、腕を組んで歩きました。
学生だったころには、そういうスキンシップを厭い、
できるだけひとを遠ざけて生きていたわたしだったのに。

中学生くらいの若者を見ていると、人間がいかに不平等に生まれてくるかがよくわかります。
ひとによって、持って生まれたものの質や量が全然違うのです。
こればかりは恨んでみても、どうしようもありません。自然は理不尽で厳しい存在です。
より多く恵まれた者ほど、そのことには無頓着です。
持って生まれた資質で勝負できるのは、せいぜい中学生まででしょう。
そのあとは、実際の行動が人生を決めるのだと思います。

自分がいかに恵まれた存在であるか、
考えたこともないような若者たちは、ときどきわたしを苛立たせます。
思い返せば、わたしもまた、そういう尊大な若者のひとりだったのでした。
いかに多くのものを無駄にしてきたか、容赦なく切り捨ててきたか、
与えられた恩恵を当然のものとして感謝すらしなかったか、
わたしはまず、わたし自身を深く恥じねばならぬのです。

あのとき、わたしは彼女に、どうして言わなかったのでしょう。
わたしにもあなたしかいない。
この孤独をわかちあえるのはあなたしかいない。
それすらも思い上がりだったかもしれませんが、
あのとき確かに、心からそう思ったのでした。
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2011.2.19 13:00 鹿伏 水温11.5℃

この時期の鹿伏には、かなりの量のオオアマモの漂着が見られます。

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もし佐渡の沿岸にオオアマモの生育地があるとすれば、それはこの近くしかないと思います。
そのくらい突出して多いのです。
一度夏に泳いだことがあるのですが、こぶし大のれき海岸で、比較的遠浅な印象でした。
岸近くで砂地が露出しているところはありませんでしたが、
近くには砂浜もあるので、もう少し沖合いは砂底になっているのだと思います。

開花枝が多く見られました。
毎年この時期には見られますが、今年は特に多いように感じます。

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手袋の上に拾い集めたのは、白樺の樹皮です。
日本海に流れ込むわずかな寒流に乗って、遠くシベリアから流れてきたものが、
季節風で吹き寄せられるのだとか。
いかにも人工的に切り取られたような形状になっているのは、
切り出された材木からはがれおちた樹皮だからでしょうか。

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アマモ科の花は肉穂花序といって、どれもこのような形状をしています。
佐渡で見られる海草の中で、もっとも早く開花するのがオオアマモです。
北海道では4月ごろから開花するようです。そのほか、三陸海岸や千島列島、
朝鮮半島にも生育することが確認されています。
2011.2.19 13:00 長手岬 水温10.8℃

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潮間帯上部から飛沫帯にかけて発生していた、アオノリの一部が真っ白く枯れ上がっています。
白化枯死(はっかこし)と呼ばれるこの現象は、北西風に面する相川や小木で、春先、よく見られます。
冬には海藻の繁茂していたこのような場所は、風がおさまって波が穏やかになり、
波打ち際に春の日差しが照りつけるようになると、
直射日光にさらされ、高温で乾燥した苛酷な環境となります。
ここに生育していた海藻はいっせいに枯れ上がり、海面すれすれの位置に白いラインを残します。
このラインの現れる高さが、平らな岩盤になっていると、小さな雪原のように見えることもあります。
冬の女王の、最後のひと息がふきかけられたかのよう。
待ちわびた春の到来を感じさせる風景のひとつです。

この時期しばしば、陽気に誘われて水面に近付きすぎたウミウシなどが、潮に取り残され、
まだ冷たい早春の風にさらされて、体温を失い、動けなくなっていることがあります。
そんなウミウシのひとつに、ちょっと見慣れないものがありました。

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硬直してしまっているので、まだら模様のある裏面の様子もよくわかります。

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ニクイロウミウシでしょうか?
わたしの持っている図鑑では、それが一番イメージに近いようです。
2011.02.20 REALIZE, NOT KNOW
今日、マスメディアやインターネットの普及によって、子供から大人まで、
膨大な量の情報を、いつでも簡単に手に入れることができます。
わたしが子供のころは、今ほど無尽蔵に娯楽番組はありませんでしたから、
ろくにテレビも見ませんでした。学校の先生は絶対的な存在で、
実際、素晴らしい教育者はたくさんいらっしゃったと思います。
幼いわたしにとって、彼らはこの世界の神秘を伝える唯一の伝道者であり、
無限のひろがりをもった図書館のように見えていました。
今、子供たちは大人が完全無欠な存在ではないことを知っています。
誰でもいずれは理解することでしょうが、ごく幼いうちから、
すでに情報として知っているのです。
現代っ子たちは実に多くのことを知って(know)います。
しかし、実感として理解している(realize)ことは、
かえって少なくなっているのではないでしょうか。
これは子供だけでなく、大人にも言えることです。
知っているだけなのに、理解していると思い込んでしまうことは、おそろしいことです。
このことは、いつも自分自身への戒めにしたいと思っています。

『環境教育』について、わたしなりに考えていることはこうです。
すべての子供が、すべての魚や貝の名前を知る必要はない。
自然界の物質の循環や、生物多様性について、理論的に説明できる必要はない。
彼らがいつか親になったときに、わが子を海へ連れ出して、
それらが確かに生きているのだということを伝えられたなら、
それで十分だと思うのです。
わたしの両親が、かつてわたしにしてくれたのは、ただそのことだけでした。
2011.02.19 凍れる湖
来週から一気に春めく予報です。
早くも過去になりつつあるこの冬は、非常に寒かったので、
しばしば加茂湖の岸辺も凍結しました。
佐渡のひとでも誤解していることが多いのですが、加茂湖は海です。
佐渡くらいの緯度では、海はふつう凍りません。
今も、外洋は10℃くらいはあるのではないでしょうか。
加茂湖は浅く閉鎖的な海なので、夏は外洋よりも高温となり、
冬は低温となります。今は5℃以下です。
同じ量のお湯を深さのあるマグカップと皿に入れておいておいたら、
お皿のお湯ほうが先に冷めることは、経験的に納得できるでしょう。
最大で水深9m程度しかない加茂湖は、そのお皿と同じです。
浅ければ浅いほど外気で冷やされますから、表面や岸辺ほど低温になります。

いよいよ水温が0℃近くなると、凍結します。
いいえ、それだけでは海は凍りません。
塩分が溶け込んでいる海水は、0℃になっても凍らないばかりか、
凝固点付近では、比重が重くなって、沈下し始めます。
冷たい海水が沈み込むと、深層の温かい海水が上昇し、表層に現れます。
こうして、表層には常に温かい海水が供給されているので、海は凍らないのです。
このような縦方向(鉛直方向)の対流によって、
海は静かに、大きく(地球規模で)かくはんされています。

加茂湖が凍るのは、北極が氷で覆われているのと同じ原理です。
地球儀を上からのぞいてみてください。
北極海が、ぐるりと陸地に囲まれた巨大な内湾であることに気付くでしょう。
ここに陸からの淡水が大量に流れ込んでいます。
北極海の塩分濃度は、地球上の他の海域より低くなっています。
淡水と海水は一見すると、容易に交じり合うように思われますが、
実際にはなかなか混合せず、比重の軽い淡水は海水の表面にとどまります。
淡水は凝固点に近付くにつれ、軽くなる一方なので、上下の対流も起こりません。
冷やされるだけ冷やされると、ついに表層は氷に覆われます。
淡水の池やダムが簡単に凍り付いてしまうのはこのためです。

加茂湖でも、淡水の流入量の多い、静かな入り江などがよく凍り付くようです。
かつては砕氷船が出たというほどですが、昨今の暖冬で凍りにくくなり、
わたしも今年になって、初めてこの現象を目の当たりにしました。
流氷のような白い氷を期待していたのですが、
思っていたのとはちょっと違って、寒い朝、水溜りにうっすら、
透明な氷が張っているような、そんな感じでした。

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砂の上の小さな潮溜まりは完全に凍り付いています。
奥の、黄色いオイルフェンスの手前の水面に、シャーベットのようなものが浮いているように見えるでしょう。
これは氷のかけらではなく、一枚に張り付いた大きな氷でした。
あちこちで凍り始めた小さなかけらが集まりながら成長していくので、
このような不均一な表面になるのではないかと思います。
周囲の小川からは、雪解け水がとうとうと流れ込んでいました。
湖面の水を舐めてみると、全然塩気のない淡水です。
マルチフリーターという肩書きは気に入っています。
来月に向けて少し整理することになるでしょう。それでももし叶うなら、
続けていきたいと思っていることもあります。
金銭的な事情ではなく、捨て切れないものがあるからです。
最近、「断捨離」なる言葉を見かけます。そのように生きるほうが楽に違いないとも思うのですが、
捨て切れない、ということが、いつもわたしを前に進ませてきました。

塾のアルバイト講師をしています。塾の先生、というのはそれなりに聞こえのいい仕事かもしれません。
わたしが塾で働くのは、いよいよ切羽詰っているときです。
今も、そういう状況だから講師をしているのです。
得意なのは数学です。理数系の講師は少ないので、いざというとき、すぐに職にありつけるのです。

中学生の頃、数学(と体育)だけは5でした。
10段階評価の5です。他の教科で、8より下をとったことはないと思います。
ルート(平方根)の足し算ができませんでした。覚える気もありませんでした。
なまじ他の教科ができるばかりに、数学の先生はいつも、
苛立ったような目でわたしを見ていました。

当然、高校に行ってから苦労しました。
最初の2年間を担当してくださったのは、開校当時から勤務しておられる退官間近の老先生でした。
この幸運なめぐり会いによって、数学を受け入れられたことは、
わたしの人生に起こったひとつの奇跡と言えるかもしれません。
どんなものでも、心を込めなければ、真実は見えない。
そのことを、わたしは数学から学びました。
退官されるとき、恩師は残りの人生の展望を語ってくださいました。
古代ギリシア語を学び、エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』を、原文で読むこと。
講義中はまず笑顔を見せない厳しい先生でしたが、時間外に話すときには、
終始照れたような微笑を浮かべていました。
ひとつひとつの数字を、慈しむように、とても丁寧に書いていたのをよく覚えています。

結局、苦労したものだけが、血肉になるのだと思います。
今では、あんなに得意だった社会や国語は、なにひとつ覚えていません。
数学だけが残りました。
苦手だったおかげで、生徒たちがつまづいてしまう気持ちもよくわかります。

血筋から言えば、どちらに転んでも理系ですが、
わたしが数学ができなかったのは、絶対父ゆずりです。
わたしという人間は、99%父親のコピーです。このことは家族全員が認めています。
母は、数学ができました。弟はその資質を受け継いでいるので、苦労しなかったようです。
病床ですら、彼女は数学の素晴らしさを語っていました。
たった1%でも、母が残してくれた偉大な財産です。

ちょうど受験シーズンで、たくさんの中学3年生が通っています。
15歳の少女は大人ですから、人の話を聞くことができます。
手に負えないのは少年たちです。解説を全く聞かないばかりか、気に入らないことがあると、
すぐにふてくされて、出来ません、と言ってそっぽを向いてしまう。
こう書くと、いかにもわたしが嫌われているように感じるでしょう。
そうなのかと思って、落ち込みもしたのですが、どうもそうではないらしいのです。
完全にナメられているのは確かですが、彼らは自分のことは話したがります。
今日なにがあったとか、先生にこう言われたとか、放課後はどんなふうにして過ごしたとか・・・
嬉々として話しています。まったく心を許し切ったような顔をするので、こちらがうろたえてしまいます。
こういう傾向は、中学1年生くらいの男子に見られることは、知っていました。
つまり彼らは、成長期を終えて見た目には大人同然に見えるけれども、
中身はまるで子供なのです。そうだと納得するのに、かなりの時間がかかりました。

思春期の男の子を持つお母さんの気持ちが、ちょっとだけわかったような気がします。
やはり異性なので、簡単に理解できないのかもしれません。
15歳の少年ほど、アンバランスで、神秘的で、腹立たしい存在はありません。
わたしはきっと、いつも苛立ったような目で彼らを見ているに違いありません。

いつか彼らにも、そういう目で誰かを見つめるときが来るのでしょうか。
そのとき、老いがあるから若さが輝くのだと、悟るのでしょうか。
そして今彼らが、しばしば無価値なものの代表としてあげつらい、
ぞんざいに扱っている数学のようなものですら、
思い出に溢れた、人生の宝になりうるのだと、知るときが来るのでしょうか。
今日という今日こそ、しなければならぬと思いつめてきたことがあるのです。

この一ヶ月、わたしは待ち続けていました。
雪が溶けて、それが現れるのを。
2月に入って寒さは急激にゆるみましたが、
山深い地では、積もりに積もった雪が消える気配はありません。
気ままな一人暮らしとはいえ、もう限界です。
これ以上、生ゴミを家の中にためておくことは出来ません。

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がちがちに凍りついた雪を掘り起こして、やっとの思いで探し当てたのは、
コンポストのフタです。
土に埋めて使っているわけではありません。
庭の隅に置いてあるだけなのですが、雪の底に埋もれてしまったのです。
毎年、フタと地面が同じ高さになるくらいには、積もります。
今年は倍近く積もりました。

推測するしかないことですが、まだきっと降りたいのでしょう。
いよいよ山を降りるべきかと、思いつめたほどの大雪でした。
去っていこうとしている今となっては、名残惜しくもある厳しい冬です。
この一年、非常に不安定な仕事で食いつないできました。
そもそも、正社員で働いた経験はないのです。
長い間、フルタイムのパートで働いてきました。職種は4つくらいは変わりました。
週40時間も働いていては、自分の時間を十分に得られないような気が、ずっとしていました。
それで思い切ってアルバイトだけにしたのです。
雇用契約すらないアルバイトは、とても不安定でした。
今月どれくらい稼げるのか、それ以前に、
今日、どのくらい働かせてもらえるのか、見通しは全くありませんでした。

このような生活は最初から破綻していました。
もっと早く転職すべきでしたが、母のこともあって、だらだらと先延ばしにしてきました。
いいえ、母のことは言い訳です。
もう無理だと踏ん切りがついたのは、完全に生活費が足りなくなったからです。
幸い、ほぼ希望通りの求人が見つかりました。かつて、介護の世界にいたのです。
空前の不景気と騒がれていますが、介護職だけは、
(たいていパートですが)たくさんの求人がありました。
紹介をお願いしたその日の午後に、面接でした。
介護業界に身をおいていたのは、ほんの3年ほどでしたが、
経験を評価していただき、合格を確信できるほどの好感触でした。

家に戻って、仏壇の前で号泣しました。
この一年が、自分にとってどんなにプレシャーだったか、
いつも調子よく、「仕事なんて」と豪語していたくせに、
いざそれを捨ててみると、確約のない仕事にしがみついて生きなければいけない一日一日、
一秒一秒の辛さが、どっと押し寄せてきて、声を上げて泣かずにはいられなかったのです。

生活の不安は、母の死の悲しみに沈むゆとりも与えないほど、
いつもわたしを追い詰めていました。
すべて自らのあさはかさが招いたことです。
今月はじめに内定の通知を受け取りました。来月から採用です。
これでなんとかなる、と思った途端、どうしようもない無力感が襲ってきて、
布団を抜け出せない日を送っていました。
急に気温が上がったのも一因かもしれません。自律神経が乱れやすいのです。
少し気力が戻ってきたので、これを書いています。

幸福なことに、わたしは生きることが好きです。
どんなときでも、この世界は生きるに値すると信じています。
それが父母から、あるいはもっと遠い先祖たちから受け継いだ、
数少ないわたしの美徳のひとつだと思います。
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「こごめのいり」は、加茂湖畔の小さな入り江のひとつです。
両津博物館のある樹崎の岬の、左側の入り江です。名前があることは、ごく最近知りました。
両側のカキ小屋からもわかる通り、もともと深く切れ込んだ海の谷の地形です。
対岸の両津市街地は、加茂湖の湖口に発達した砂洲です。まるで水上に浮かんでいるように見えます。

今、入り江の最奥には小さなヨシ場があります。
いくつかの小川が流れ込んでいるので、砂が堆積して自然のヨシ場となったのです。
地元の人たちの回想によれば、この場所に大量の土砂が流れ込むようになったのは、
飛行場が整備されたころからでした。
飛行場が出来る以前、そこは森だったのです。
切り拓かれた樹崎の丘は、保水力を失い、大雨のたびに表土をはぎ取られて、
その土は、今も入り江を少しずつ埋めたてています。

こごめのいりには、現代の山と里と海のかかえる問題のすべてが、凝縮されているように思われます。
佐渡に暮らすひとでも、こごめのいりを知るひとはほとんどいません。
そばを通ったことはあっても、気にも留めないでしょう。
忘れ去られた入り江、ありふれていて、人々の心からははるかに遠い入り江、
けれどもこの入り江は、すべての人たちの「ふるさと」の風景につながっているのではないでしょうか。
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