上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
日が長くなりました。
帰り道、西へ向かって車を走らせていると、
田植えを終えた田んぼのあぜ道が、燃えるように輝いています。

IMG_1788_convert_20150521214329.jpg

一面のスイバの花が、西日を受けてきらめいています。
ちょっとオレンジがかったピンク色のグラデーションが、
なかなか素敵。

IMG_1791_convert_20150606083855.jpg

こんなにたくさんのスイバが咲いているのは、
あぜの草刈にまだ手が回らない、大百姓さんの田んぼかな。

スポンサーサイト
連休が終わると、いつも通っている県道が通行止めになり、
集落の反対側を、ぐるっと遠回りして、下界に降りています。
そちら側を通ることは滅多になかったので、今年になって初めて、
こんな懐かしい風景が残っていたことに気づきました。

IMG_1776_convert_20150521214243.jpg

苗代です。佐渡では“のうしろ”と呼んでいるようです。
水を張った水田で、直接苗を育てる方法です。

IMG_1775_convert_20150521214209.jpg

これはもう田植えのために、覆いがはいでありますが、
種まきの直後は、弓型の支柱を苗の上に渡して、
手前に積んであるビニールをかけて保温しました。

10年前まで、我が家でもこの方法で苗を作っていました。


2015.05.13 母の筍御飯
タケノコの季節になりました。
5月初旬から孟宗が出始め、淡竹(ハチク)に追い立てられ、
ほろ苦い真竹は早くも夏の味わい。

今はモウソウの収穫に追われています。
実家には竹林がありましたので、時期になると毎日大量に収穫できます。
皮ごと煮るとかさばるので、母はまず皮を全てむいてから、
大鍋に何本も放り込んで下茹でしていました。

正直、下茹でしていたかどうかもあやしいところがあり、
あらかじめ煮しめ用に輪切りにしてから、
1度茹でこぼしていただけだったかもしれません。
収獲して2時間以内なら、アク抜きは不要とも教えられました。
皮ごとゆがくのも、唐辛子を入れるのも、米のとぎ汁を使うのも、
ずいぶん大人になってから知って、恥ずかしい思いをいたしました。

何年かは、教科書通りにあく抜きしてみたりもしましたのですけれど、
結局面倒くさくなって、最近は母のやり方を踏襲しています。
採れたての柔らかなモウソウなら、そのやり方で問題ないようです。

まずは筍御飯でいただきましょう。
母の直伝は、他には何も入れない、タケノコだけの筍御飯です。
小さく切って、だししょうゆで味付けしたタケノコを、
米と一緒に炊くだけです。

IMG_1774_convert_20150521213808.jpg

母は、味付けしたタケノコを、炊き上がった白ごはんに混ぜ込んでおりました。
一緒に炊かなかったのは、我が家がお釜さんを使っていたからでしょう。
一般的な薪で炊くかまどではなく、もみ殻を使うぬか釜でした。
焦げ付きを恐れてか、炊き込みご飯を炊くことはありませんでした。

タケノコご飯の朝は、特別な朝でした。
目覚めると、かぐわしいタケノコの香りが、2階にまで漂っています。
転がり落ちるように階段を降りると、母がお釜さんに身を寄せて、
せっせとタケノコを混ぜ込んでいます。
わたしは傍らにしゃがみ込み、身を乗り出しては叱られながら、
いまかいまかと胸を弾ませながら、作業が終わるのを待っていました。

そのころはまだ、4世代の大家族で、
1升分のご飯を混ぜ合わせるのは、なかなかの重労働だったことでしょう。
母は死ぬまでぬか釜でご飯を炊き続け、
炊飯器を買いたいというささやかな夢は実現しませんでした。

母の煮しめは、こちらもまたシンプルに、何も入れない、
タケノコだけの煮しめでした。
煮物はすべて、めんつゆで味付けするという大雑把な母でしたが、
タケノコの煮しめだけは、煮干しでしっかりとだしを取っておりましたのも、
強く印象に残っております。

潜水中はもちろんですが、船の上での作業というのも、
大変神経を使うものです。
わたしはこれがけっこう苦手。だって、山の子ですもの。
操船もいまだにペーパードライバーです。

気の滅入る仕事をやり終えて、昼ごろ、
いつも係船している佐渡汽船の近くへ戻ってきましたら、
会社の潜り船(もぐりせん:潜水士船)のまわりに、
老若男女が集まって声を上げています。

もしやと思って水面をのぞき込むと、案の定、
銀色の魚群が渦を巻いておりました。
IMG_1769_convert_20150516133002.jpg

このところ、両津湾にイルカが入っていて、
イワシが岸近くに寄っていると聞いていたのは、
本当だったようです。

IMG_1770_convert_20150516132943.jpg

どこからか奇声が聞こえて、道路のほうを見ますと、
釣竿を手に、全速力で駆けてくる若い女の子たち。
お父さんは次々に釣り上げるイワシを、
幼い息子に得意げに見せびらかしています。

ついつい口元がほころぶ、のどかな初夏です。

集落の中央を流れる川の、“こちら側”に育ったわたしにとって、
あちら側はいわば異世界でした。
川幅はわずか数メートルなのに、
幼子には、はるかな別天地のように思われました。

特に、橋が両岸をつないでいる地点から上流の100メートルほどの区間は、
こちら側はブロックを積んだ護岸なのに、あちら側は自然の土手になっておりました。
背の高いクルミの木の下を、崩れかけた細い道を伝って下りてきた媼が、
河原で何か洗い物などしているのを、うらやましく眺めたものです。

またあるときは、集落で最後の1頭を飼っていた翁が、
白い小花の群れ咲く岸辺で、毛並みの黒々とした大きな牛に、
のんびり草を食ませている様子などは、夢を見ているように美しい光景でした。

今はその媼も、翁も、牛もいなくなりましたが、
彼らの足元で揺れていた白い花だけは、
変わらず毎年、花を咲かせています。

IMG_1730_convert_20150516131535.jpg

古代中国の伝説の山、崑崙にちなむとも言われるコンロンソウです。
仙女・西王母が住むという、大陸の最果ての地、崑崙。
その地は確かに、わたしの記憶の中にもあったのでした。

IMG_1729_convert_20150516131502.jpg

どの集落にも、いわば、
集落の中心と呼べるような場所があるものですけれど、
それは、お寺だったり、神社だったり、
あるいは橋だったりすることが多いように思います。

もう、ずいぶん前になりますけど、内浦のほうで、
夏の間だけ使う、丸太の橋を架けているのを見たことがあります。
集落の力自慢が総出で作業しておりましたけど、
だいぶ難儀しておりました。

そのとき初めて、いつも何気なく渡っていた橋というものが、
いかに壮大なものか、思い知ったように思います。
今は埋め立てられて川でなくなった場所にも、
橋という地名が残っている、という話も聞いたことがあります。

川のこちら側とあちら側をつなぐ橋がなかったなら、
両岸は別の集落であったかもしれません。
橋というものが、なんとなく、
向こう岸の所有物のように感じてしまうのはわたしだけでしょうか。
あちら側に用のない人間には、
踏み込むことの許されない聖域のように思われるのです。

わたしの生まれ育った集落にも、そんな橋があって、
かつては、幼心に近寄るのもはばかられたものですが、
いつしかあちら側の人間になって、橋を渡るのが日常になってしまうと、
そんな神聖な気持ちも薄らいでしまうものです。

それでも橋を渡るたびに、あちら側の領域に入ったと感じたり、
こちら側へ帰ってきたと安堵したりすることが、
今でもしばしばあるのは、不思議なものです。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。