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のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて 垂乳根の母は死にたまふなり
                                      斉藤 茂吉


母の命日でした。
父と妹と、墓参りに行ってきました。
6歳年の離れた妹とは、今はふるい戦友のような関係です。
6歳も離れていると、姉妹の仲は複雑です。
彼女が自意識を持ち始めた頃には、わたしは高校進学のために佐渡を離れていました。
5年後に卒業と同時に帰島して、初めて妹は自分に姉がいると確信したようです。
長期の休みもバイトなどで家を空けることが多かったので、
同じ家にいても、わたしたちはもっとも遠い存在でした。
高校卒業から間もなく、両親との関係がこじれた年頃の妹は新潟に出て行きました。
それから、縁の切れない、つかず離れずの友人のようにして過ごしてきました。

母が、余命いくばくもない、と告げられたとき、
父や弟は、逃げるように、自身の悲しみの中に落ち込んでいきました。
早い段階で腎臓がダメになったので、衰弱はすさまじく、
病名を知りたいという妄念が彼女を狂わせてゆきました。
告知すべきであるという医師のすすめからも、彼らは逃げ続けました。

わたしは当初から告知派で、妹は反告知派でしたが、
最終的に告知すると決めてからは、わたしたちは一致団結しました。
茫然自失で決断を下せない父や、毎日めそめそと泣き続けている弟は頼りになりません。
病室で毎日つき添うのは妹の役目で、わたしは医師との連絡に奔走しました。
心を強く持って、涙を忘れ、笑いながら、母との最後の日々を過ごそうと話し合いました。

よく、男は弱く女は強いと言いますが、それは本当だろうと思います。
わたしが間違っていたのは、女の強さが男の弱さを凌駕するのではなく、
男の弱さが女の強さを、優しいもやのように包み込んで癒すのだ、ということです。

実際、告知ののちに、死を覚悟した気丈な母が受け入れたのは、
わたしたちの強さではなく、父や弟の弱さでした。
涙も見せずに普段どおりに接するわたしたちに対しては、
我を忘れて当たり散らすときがありました。

今、あの嵐のようなふた月を振り返って、思うことは、
あんなふうに無理をして、強い女であり続ける必要はなかったのです。
ひとり部屋に帰って枕を濡らす代わりに、
母の手を握って一緒に泣けばよかったのです。
告知するかどうかなどいう議論は少しも重要ではなく、
父や弟がそうしていたように、いかにもしょんぼりとして、
言葉もなく傍らに座っているだけでよかったのです。

しかし一方で、あのとき、もし家族のうちの誰かが、
悲劇の只中にあっても強い先導役として、皆をまとめあげねばならなかったのだとするなら、
誰かが戦争の最前線に立たねばならなかったのだとするなら、
それが父や弟ではなく、わたしたちであったことを誇りに思おう。
わたしたちが涙を呑む代わりに、彼らの心が少しでも軽くてすんだのなら、
それでよかったのだろうとも思うのです。
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